Be you with third culture kids! Let your journey begin...yuko's blog

複数の国で幼少期を過ごす子どもたちの母であり、異文化間コミュニケーションに興味がある女性が綴るつぶやき。

春休みは昭和な感じ。

11日間の春休みがスタートした。学校最後の日、フロリダ、アリゾナ、カリフォルニアなどなど行って来るね〜って旅行に出かけるお友達たちを横目に、我が家はもっぱら地元で過ごす事に。vacationならぬ、staycationのスタート。なんといってもアメリカ生活も余すところ2ヶ月。ここで過ごすこと自体が私達にとっては旅行のようなものなんだな。

シカゴ近辺でオススメの動物園。

Brookfield Zoo

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(ペンギンと出会ったのが嬉しかったようで。ぬいぐるみをプレゼントしたらこの通り・・・)

そして今日は4月2日。あと春休みも3日。で、気づいた事。毎日毎日、誰かが我が家にいる・・・。2軒となりのDavid、おむかいのLeoとLina、りゅうの友達のCaden、こうたの友達のShaineやSammarth、Jamie。裏に住むNaohそしてHashir 。この子達がいつもの顔ぶれ。子どもたちには人種や宗教(ちなみに、カソリック、イスラム、ジューイッシュ、ヒンズー、仏教・神道だよ〜)は関係ない。我が家にはゲームはないけれど、トランポリンがあるお陰だな。子どもたちは、来たい時に来るし遊ぶ。帰りたい時に帰る。ただそれだけ。もちろん、喧嘩もあるある。自分たちで解決できない時にはわたしが呼ばれる事もある。仲裁というよりは、なんちゃって通訳って所かな。わたしは喧嘩に対して評価もしないし、当事者同士に事実を伝えるだけ。たまに、だんだん腹が立ってきて、大声になる時もあるし(修行中)機嫌が悪くなって、勝手にいなくなった子どもを追いかけて、親の元へと急ぎ子どもも含めて話し合ったり。まさに人種や宗教のミックスを除けば昭和なわたしの子ども時代を思い出すかんじ。こういう日常って有り難い。

 

ご近所のナナさんに片道1時間近くドライブして連れて来てもらったのは、ブルックフィールドzoo。。216エーカーあるこの動物園は、ダウンタウンにあるリンカーンパークZOOの7倍!動物も2,300と、2倍近い。動物園に行けたのは楽しかったけど、動物達が故郷に帰りたいとみんな寂しい目をしていたのが悲しかったと涙ぐんでいた。

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(くじゃくも散歩してる。)

遊ぶ事をplaydateと呼んでいて、車社会のアメリカではごく近所以外はほとんど車で移動するため子ども同士の約束だけではなく、親の送迎が必要になるため必然的に親同士も連絡をとりあうことになる。

そして、この春休みお友達のおうちで「お泊まり」することも長い休みの中で楽しみの一つ。それをsleepoverと呼んでいる。11日間の休みの中で、3回のそれを楽しんだ子どもたち。今夜は、親戚以外の家には初めてのお泊まりですとconfy(心地よいものまくら・ぬいぐるみなど)をかかえて5年生の男子が1人うちにきた。さてさてどうなることやら。

 

アメリカ生活もカウントダウンだから、このタイミングを活用してわたしが今できることに注目したら、「子どもたち同士の交流の機会を創ること」ということが腑に落ちて、優先順位1位に生活してきたけど、さすがにわたしもくたくたかも〜。でも他者の期待に沿う為に生きてる訳じゃないから、この疲労感も悪くないな。精神が疲れない分身体が疲れるという類いの疲労感。同時に、ドイツ語の勉強ちっとも進んでないし…。引越し業者さんが第一弾の船便をドイツに送るため来週来るしな...。計画的に家具等の大物の荷物は処分してきたんだけど、なんか抜けてる気もするな。日本人補習校の勉強は量が多すぎて2人とも全く手が付けられてないし。なんて、今できてない事を考えだすと不安になるから、課題の分離をして、自分のできることにフォーカス。優先順位を大切に。優先順位1番だけはできているから、後のできないものはできないと割り切ろう。最近こういう切り替えが前よりできるようになってきたら前より頭がすっきりしてきた。ようするに今フォーカスできないものは捨てるということに慣れて来た気がする。捨てるということができなくて、以前のワタシは全て抱え込んでダウンしちゃってたからね。たった1つだけ自分が自分を満たせる事を行動したらそれが自然に他者の笑顔にもつながっている。自分の行動が、他者の期待を満たそうとすることだったら、それはワタシが自分に無理をしていることで、ワタシと他者、お互いの関係にとってよくない。自分を満たせていたら、それは自然と他者を満たす事にもつながると今は思う。そこにはきっぱりとした潔さがいるんだよな。かなり脱線(笑)

 

結局わたしの中には社会に適応したいという部分と、はちゃめちゃな子どもな部分が共存していて、そのミックスした自分自身が「わたしに適応したい」と着地点を探し続けているんだろうな。昭和な春休みを送りながら、子どもたちや親ごさんとのふれあいを通して、わたしに適応できる着地点を毎日探し続けよう。

 

 

 

 

 

食べ方も人それぞれ

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インド産まれのご両親がアメリカに移民としてやって来て、その元にミネソタ州、ミネアポリスで産まれ、シカゴの街で育った友人。彼女いはく、自分たちは、ファーストジェネレーション。彼女のオットさんは、アイルランドとポーランドにルーツを持つ。そして、インドも日本もアジアだから、私達はアジア人だよね〜って笑って言う彼女。今日は、NPOの仕事が休みで、彼女の子どもたちとうちの子どもたちは一緒に彼女の家で遊んでた。そして、用事を終えて迎えに行った私は、彼女と大人のplaydate。早速ワインとおつまみでもてなしてくれて、大人2人のワインタイム。2時間近くのお楽しみ。夕方からワインなんて、嬉しい♪ 居心地の良い彼女といっしょなら尚の事。

 

彼女が出してくれたおつまみの写真右横は、スナップえんどう(snappeas)は今が旬でお値段も花丸。でね、生のまま食べるんだって。ゆでて食べる事しかしらない私は興味津々でつまんでみた。逆に、ゆでるって??って彼女はビックリ。そして、そのまま食べてみた。生っぽい、当たり前か(笑)でも、なんとなく甘みが深い感じがした。ずっとゆでて食べてる身としては、生でそのままがぶっと食べる習慣がないもので、1つめはビックリしたけれど、そのうち慣れて来た。食習慣とは面白い。おなじものでも違う調理法。あたりまえっちゃ、あたりまえだけど、同じものを見て違うことを考える。発想の転換ってこういうことなのかなとふと思う。

 

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そして夜。ここ2週間、懸案事項だったFISへの願書をようやく全て揃え終えることができ2人分の登録が完了。1人でお祝い故、夕方にひきつづきワイン。で、飲みながら考えてた事。それは子ども時代の事。私は母が大好きだった故、仕事仕事で身も心も疲れ帰宅後愚痴をこぼす母のオアシスになりたいと、母の期待以上に知らず知らずの間に勝手に答えようとして生きて来たこと。なんでそんな生き方を選んだんだろうなって考えたら、単純に母の笑顔を見たかった、母の喜ぶ顔をみたかった。それが自分の幸せだと思ったから。それにつきると思った。でも、それが他人軸で生きる原点になってたことを今更ながら気づいた。遅いね。だから、私は息子達にそうなって欲しくないと願っている。同じ母と暮らしても、長男と次男では感じ方もそれぞれなのだろう。スナッピーの食べ方みたいに。どうしたら、人間同士よりよい関係をつくれるんだろう。まあ、こればかりは、本人達に尋ねてみるしかないんだよね。きっと。子どもは率直な意見を知っているし、知らない場合は知らないと答えてくれる。同じものを食べるにしても食べ方はひとそれぞれ。個別で感情的にならずに、対話を続ける事の重要性に今更ながら気づく夜更け。

Lady Gagaの魅力

彼女の人格。自分の意見を主張し、他人も尊重する姿勢。

www.vox.com

スーパーボールのハーフタイムショー後の体型批判コメントに対しての感想を前回記した。

chicagoyuko.hatenablog.com

でも、ショーそのものについて触れていなかったことに気づいたのでちょっと今日は触れてみたい。私はアメリカンフットボールに興味があるわけではないので、スーパーボールがいかに国民的大イベントだということも知らず。合気道の水曜日担当チャック先生が、今年に入ってから、スーパーボールについて熱く語ってくれるもんで、普段あまりテレビを見ないのだけど、日曜日は夕方からテレビにかじりついて、アメリカの文化を楽しもうと決めていた。ゲームそのもの、コマーシャル、ハーフショーが見所らしい。実際、ゲームはドラマのような逆転劇だったらしく、それだけでも最高だったと次の日まわりの人たちは言ってた。だけど、私はガガのハーフショーの部分しか見てないのよ〜。もうね、私は国がどんな状況にあっても自由と正義の国アメリカという国を愛しているんだ私は、というエネルギーが伝わって来てそんな彼女の姿が強くて美しく見えて、最高に感動的だった。

 

ちなみに年々視聴者は減って来ているものの、数字上アメリカ国民約、3人に1人が見ているという計算になる。すごいね。(下記FORTUNEより引用)

Here’s How Many People Watched the Super Bowl  Tom Huddleston, Jr.Feb 07, 2017

Between an amazing comeback and a dramatic overtime finish, this year's Super Bowl proved to be a historic game. But,the excitement did not translate into a TV ratings bump for Sunday night's big championship.According to Nielsen, 111.3 million people tuned in to watch Super Bowl LIon Fox last night. That's a massive total, and the game will almost certainly be the most-watched television event of 2017, but it falls short of Super Bowl viewership totals in recent years.

 

最初の動画すごくまとまってる。“God Bless America”と“This Land Is Your Land”だけでアメリカ人にはものすごいインパクトがあるようなのだけど、私にはその次の”The pledge of Allegiance”「忠誠の誓い」の一節に鳥肌がたった。これ、アメリカの公立小学校では必ず朝、授業が始まる前に手を左胸にあててみんなで唱えてる。11ヶ月前にアメリカに来て、学校に通い始めたうちの息子達が初めて暗唱したのは、忠誠の誓いだった。なんだ、なんだ?と家に帰って子どもたちとyoutubeを検索し、意味を調べた事を思い出す。「アメリカ合衆国の国旗とその国旗が象徴する共和国に忠誠を誓います。その国とは神の元に統一された国、不可分の国、全ての人々に自由と正義をもたらす国です」という意味だと思います。私としては、「愛国心をあおる」ということとは別に、今自分が住んでいる国を愛する気持ちを養うという意味で、受け入れ子どもたちと暗唱の練習をした。きっと、アメリカの公立小学校で学んできた人々にとっては、これは肌にしみついた言葉なんだろうな。こういう文化は、日本にいたら分からなかったな。

 

“I pledge allegiance to the flag(あいぷれーじゃーりーじゃとうだふら)

of the United States of America, and(ぶざないてすておばめりか)

to the republic for which it stands,(とうだりぱぶりふぉういちいとすたんず)

one nation under God, indivisible, (わんねーしょんあんだーごっ いんでぃびじぼ)

with liberty and justice for all.”(ういずりばてぃーあんじゃすてぃす ふぉおー)

 

 

上の赤字のところが使われていたんだけど、最後の「for all」の部分は彼女の魅力がたっぷり強調されていて、それを合図にバックの無数のドローンが星条旗を描き、彼女が舞台から飛び降りるというパフォーマンスに、「さあ、うちひしがれてないでいくわよ〜」という力を貰った気がする。もう、彼女の世界観へ一気に引きずり込まれた。中学生の頃、UKのポップバンドが流行っていて、日本のポップカルチャーとは違うものを感じたことが、英語に興味をもつきっかけだったことを思い出した。今思うとその違いは、「自分の心に響くメッセージ」があるかないかということだったのかも知れないと思った。

 

そしてこの場合、「メッセージ」とは「その人自身の生き方」であり、「主張」「スタイル」「ファッション」「センス」とも言えるかな。それは、その人の存在がかもしだすもので、嘘や創りものや見せかけでは、人の心には届かないんだよな。彼女は一瞬でそれを届けてしまう。すごいな。そういう生き方に触れる事で、わたし自身の存在がかもしだすものに変化を加えられたら嬉しいな。ああ、彼女の魅力から目が離せないな〜。

早朝STEM

STEM (Science, Technology, Engineering and Math)

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(写真は去年父親の勤務する会社も出展していたIMTSへ行ったときの1枚。マコーミックセンターが会場で2年に1度開催されるらしい。)

 

子どもたちの通う公立小学校では、先週から希望者を募りSTEMクラスが始まった。学校へは通常8時20分までに登校するのだけど、このクラスは、7時30分〜8時15分までの、授業が始まる前に受ける事になる。コーディングも、同時期に開催だったため、両方希望していた長男は、STEMを選んだ。2年生の次男はコーディング。2年生は希望者が定員より多かったので、2チームに分けて開催となった。

 

ネットで、STEMを検索すると英語でいろんな情報がひっかかってくる。英語を読む練習も兼ねて、さらーっと読み流したところ、STEMを強化することの必要性を、データというエビデンスを使い、子どもの未来の職業選択肢を広げることにつながることを説明している記事が目に留まる。これから消えて行く職業がある一方で、ITは人間社会や仕事と密接に繋がって行く。STEMを強化することは、子どもの未来にとって豊かなキャリアにつながる。求人も増えているし、給料を比較した数字も。学校と子どもの未来、仕事と社会がつながっていると、今自分が学んでいることが、社会とどう繋がっていくのかイメージしやすいと思う。

 

勉強は勉強。中学入試で燃え尽きて、ようやく希望の中学校に行ったものの、勉強がなんの役にたつのか分からず、点数をとって上位5本の指に入る事を目標にしていた、私の苦行でしかなかった中学時代。学びと社会を完全に切り離して考えていた私は、今の子どもたちがとてもうらやましいと思う。

 

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(父親が他州に出張中だったため、このブースにはいなかったんだけど、父の仕事場を覗く感覚で立ち寄ってみた。子どもたちは大喜び。子供騙しの施設ではなく、本物に触れる事は、五感を研ぎすましてくれると思う。) 

 

本来、人は学ぶ意欲があるもの。親が邪魔さえしなければ、その意欲は伸びていくんだろうな。自分の現在地と未来。「意欲の先にある姿」と「今の自分」を線でつないでみたときに、「意欲の先にある姿=ゴール」と「今の自分」限りなく近づけるために必要なもの、それが「教育」なんじゃないかな。科学や化学、数学、物理など大の苦手で、ITなんかなかった時代に小学生だった私にしてみたら、STEMを幼い頃から、特別なものではなくて自然に近くにあるものと捉えられるそしてそれが楽しい!そんなチャンスが幼い頃から身近にある彼らを見ながら、彼らが18才になるころには世界はどんなに変化しているんだろうと妄想してみたりする。その社会で果たして自分は化石と化しているのだろうか。それとも・・・

 

 

美は傷によっても構成される

www.youtube.com

最近のお気に入りの局はコレ。自分を傷つけなくても(雑誌でもてはやされるような美の条件にあわせて無理なダイエットなんかしなくても)あなたはそのままで美しいよ♪美の基準はあなた。あなたが無理に自分を変えなくても、世界が変わればいい。という内容の歌詞らしい。聞いてたら元気の湧いて来る曲。

 

日本で暮らした40数年とアメリカで暮らした11ヶ月を比較したとき一番私がアメリカにいて心地よいと感じる事。それは、私が自分でいられるということだった。日本に暮らしていたときは、他人の目を気にして(空気を読んで)、自分の本当の気持ちを抑え、大勢の意見に従う(協調性がある?)という習慣が身に付いていて、それは当たり前で、そういう行動をとることが社会性を兼ね備えた大人だと思っていた。だから内と外のギャップが居心地悪く、本当に自分のしたい事や気持ちがわからなくなっていた。ギリギリのところで抵抗しながら、ここからはみ出さないでという境界線の内側で、小さな抵抗を積み重ねて大人になった。それは、わたし自身が持つ弱さや保身ともいえる。

 

でも、フラストレーション、弱さ、保身、哀しみ、苦しみという経験は、同時に剛さに還元できる。自分が抱えている傷はただそこに、存在するだけ。それは悪でもマイナスでもない。その傷も含めて自分だということ。それをただ受け入れる事から、はじめればいい。傷はみせびらかすものでもないし、かといって隠すものでもない。ただ在るもの。それに自分が気づいて味わい尽くすことが大切なんじゃないかな。自分自身が自分を評価せず、自分を知り、単なる事実として受け入れられた時、その人の人生の舵は、今までとは違う方向に切りかえられるのではないかと思う。大人になってから、それをするのは生きて来た年数の半分以上かかる気がする。そうなると、舵が切り替わるまでに死んじゃうかも(笑)

 

舵を切り替える為には、住環境を変化させるというのは有効だと思う。外的要因から、嫌でもどうしても自分が変化しなきゃいけない状況に追い込まれる訳だから。それが、異文化だとなおさら。自分が今まで慣れ親しんで来た安全圏が存在しない訳だから、あたふたするよね。知らない人、知らない土地、知らない言葉、知らない習慣。でも、どこに引っ越しても、私がいつも思うのは、住む場所があって食べるものがあるだけで、有り難いと言う事。身近なところでは、わたしが通っていた図書館の無料ESLクラスには、多い時には20名程の生徒たちの半数がウクライナの戦火から逃れて来た人たちになることもある。ウクライナというなじみのなかった国が、その人たちの存在により、急に身近になる。そして、その人たちは、ウクライナという国から離れて、異国であるアメリカでこれからの人生を過ごす。私と同じ世代の人たち。もっと年上の人たち。そしてわたしは再確認する。アメリカという国は移民の国だったんだと。隣の人がどこから来た誰だかわからないからこそ「自分は何者なのか」を主張しないと、人が共存していく事が難しい国だといういこと。だから、会えてUnited states of Americaなんだと。あらかじめ分断されている人たちの集団だからこそ、敢えて「Unite」と明記してまでも、結束を訴えているのではないだろうか。はじめから、ほぼ単一の民族が暮らす日本は、あらかじめUniteしているように見える。だから、わざわざ「自分は何者なのか」ということを主張しなくても、ある程度同じ生活基盤(日本人が日本語で)にのっとって暮らして行けるという現状がある。これは人間の意識を形成する上で、非常に大きな違いを生み出すと感じる。要するに、「あらかじめできている和を乱さないように生きることが要求される日本」「異なる人種や宗教を持つ人間が一つの国で共存していくために、自己を主張して生きて行くことが要求されるアメリカ」だけど、不思議なのは、わたしが過ごした日本でもアメリカでも、人は根底で自分の人生に幸せを求めている限り、悩みの種類は同じようなものなのではないかと思う。「他者からの評価で、自分の価値を決めてしまう。自分に自信がない。」という類いのもの。

 

今年のスーパーボールハーフショーをライブで見ていて、レディーガガに釘付けになった。でも、私が一番感銘を受けたのはその後のインスタのツイート。彼女の体型に対する批判コメントに、ガガの出したツイートに泣けた。(以下引用)

 

I heard my body is a topic of conversation so I wanted to say, I'm proud of my body and you should be proud of yours too. No matter who you are or what you do. I could give you a million reasons why you don't need to cater to anyone or anything to succeed. Be you, and be relentlessly you. That's the stuff of champions. thank you so much everyone for supporting me. I love you guys. Xoxo, gaga

 

自分のからだに、私は自信をもっている。だからみんなも、自分のからだに自信をもってって。そして、執拗なまでに自分でいることの大切さをただ、シンプルに伝えている。彼女だからこそ、この言葉が出て来たのだろう。本当にたくさんの苦難を受け入れた、剛い、慈悲深い、繊細な、愛の深い人なんだと感じた。

 

「自信がない」と思い悩む事が、精神的な「傷」の1つだとしたら、その傷を評価することなくただ、自分の素直な気持ちを知り、感じ、受け入れ、とことん味わいつくせばいいのではないかと思う。隠すことなく、誇張することなく、ただ自分が自分と向き合って受け入れるという作業をたんたんと続けていくだけ。それは孤独な作業だけど、執拗なまでに自分でいる事につながると思う。その時間が濃く深ければ同時にそれは、自分の剛さや勇気に還元されると思う。傷と美って、相反するようだけど、恐らく両方を包括している概念のような気がする。言い換えたら、美は傷によっても構成されているということ。書くという作業は、面白い。「美は傷によっても構成される」なんて、今日のブログを書き始めたときには考えていなかったんだけど、書き進めるにつれて、そんなことを自分が考えていたんだと言う事を知った。うん。タイトルを「執拗なまでに自分でいることの大切さ」としていたんだけど、変えよう;) 

 

貴女が持つ傷はそれを含めて美しい。すなわち、これを読んでくれている貴女が誰だか知らないけれど、今の貴女は特別に何かをしなくても「今のままで」その存在が美しいと心の底から感じられるような、そんな今日を過ごして欲しいと願う。実は、アメリカに来てから急に10キロ近く体重が増えてしまった。そんな自分が自分にエールを送ってるようなブログになったなあ今日は(笑)書く事によって癒されているのは、わたしなんだな〜。

 

 

質問と詰問の違いが腑に落ちていなかった件

 

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シカゴ。真夜中のジョンハンコックセンターに雷が落ちた写真らしい。夜中に雷の光が怖すぎてなかなか眠りにつけないと思っていたら、強度の雷雨注意報が出ていた。お陰で今朝は寝不足。

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そして、タイトルの質問と詰問の違いについて。私が次男にしていたの「詰問」は、イメージとして「ジョンハンコックセンターに落ちた雷の写真」だったみたいだ。要するに「質問」と「詰問」は雲泥の差。先日8才の息子が学校でクラス間を移動中に、廊下でクラスメイトからいきなり胸を強く叩かれ、大泣きをしたあと保健室で休んでいたらしい。担任をはじめ、先生方がすぐ駆けつけてくれて、校長先生も対応してくれたのだけど、本人は「なんのこっちゃわからん状態」結局、相手の子どもの勘違いによるとばっちりだったんだけど、それよりも問題なのは次男が帰宅してもそのことをわたしに一言も話さなかったことだった。たまたま我が家に遊びに来ていた子どもからの情報と、これまた、たまたま出会ったクラスメイトの親との会話からこの話を知る事となった。人とのつながりから得られた情報に、有り難さを感じる一方何故、次男はわたしにそれを話さなかったのかを慮った。そして分からなかったので聞いてみた。それは、イロイロ私に問われるのが嫌だったことと、怒られると思ったからだったらしい。ガーン。

 

これまたアドラー心理学岸見先生の言葉が脳裏によみがえってくるのだけど、「質問」とは、お互いが答えを知らないということが前提でなされる相手と対等な関係でなされる会話のこと。「詰問」は、一方が答えを既に知っていると思いこみ、なされる会話であり、要するに相手と対等な関係ではなく上から目線だということ。

 

今回次男が私に言えなかったのは、完全に私のせい。次男の心は私に開いていなかったということを理解した。私は良い聞き役ではなかったのだとすごく反省した。特に最近よく怒っていた。子どもたちが現地校に通うということは、足の届かないプールに放り込まれて、浮き輪を持たずに泳いでいるようなものだと思う。時に、泳いでいる誰かが、浮き輪を渡してくれたり、バナナボートみたいなカラフルな乗り物に一緒に乗ってキャーキャー言ってみたり、もがいているのに知らんぷりされたり、どつかれたり。なのに、安全地帯であるはずの家庭に帰った時、溺れたこと、悲しかったこと、苦しかった思いを私に話せないという環境を自分が創ってしまっていたことを知って、彼に申し訳ないことをしたと心が痛んだ。今から、わたし自身の行動を変えるしかない。なんかほんまに情けないな自分。わたし自身が「寛容」になって、辛抱強く彼らの気持ちを理解するために、彼らがいわんとすることを「聴く」訓練を重ねよう。また、同じ過ちを繰り返さない為にこのブログを情けないけど、備忘録として記してみた。怒りは人と人の距離を遠ざける。

 

言語修得に一番大切なのは、本人自身が、特別自分が良くなろうとしなくても自分のままで安心してここにいても大丈夫だと思える自分を信じる力を持っているということだと思う。その気持ちは同時に、周囲の人間の愛によって確固としたものになると思う。だって、言語は人間同士の距離を繋げるものだと思うから。その心の安定があってからこそ、修得が可能になる。愛と言葉は切っても切り離せない。頭ではこう思えても、実際の生活とリンクさせるのはほんまに難しいもんやな。どれだけ修行すれば行動に現れるのか。

 

トロント大学名誉教授の中島和子さんの著書「言葉と教育」に次の一文があった。「日本人の親は子どもを自己の延長線上のものとして見る傾向がありますから、以心伝心で子どもは親と同じように考え、同じように感じていると無意識のうちに思ってしまいます。」(※本文P49より引用) それを読み、無意識にそう思っていた自分に気づく。子どもは独立した1人の人間だから親とは違うと意識では思おうとしていても、40年来染み付いてきた無意識はそう簡単にははがれない。何度子育てにおいて、同じ過ちを繰り返しているのだろう自分は。

 

ここのところ、たった10ヶ月でこんなにも現地校での生活になじみ、友達もできている子どもたちなのに、「日本語も英語も中途半端になるのではないだろうか」言語修得能力や学習能力向上に関して焦っていた自分を知った。

 

まずは、私が余裕を持とう。言語修得は長期戦。40過ぎた私だってそうだもの。今与えられた環境の中で、ベストをつくす。ないものではなく、あるものに焦点を当てて。まずは、詰問をやめて質問をする。ここからだな。異文化の中でお互いに、成長しつづけられますように。

 

子育てで、育てられ・・・

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子どもの創造力と行動力は自由だと見ていて思う。ほんと、うらやましい限り。アイスホッケーを観戦した後には、もう自分は選手のつもり。ほうきやモップを片手に、インラインスケートブーツを履いて、テニスボールでホッケーごっこが始まる。この創造力の柔軟さと行動力の素早さたるや、「好き」と「興味」がつながったら最後、あっという間である。日本でも、アメリカでも変わらない二人。

 

そんな若い2人を横目に、だんだん腰が重くなるわたし。自分が産んだのは事実なんだけど、そうはいっても彼らが産まれたその日から、自分の思い通りにならないことばかり。相手の子どもたちも意思がある1人の人間なわけなので、彼らがわたしの思い通りになるというのはそれこそわたしのエゴでとんでもない思い上がり。わたしの思い通りになる訳がないというのが当たり前と言えば当たり前の事であるが、はあ。これらは日常であるがゆえに、冷静になれないこともある。子どもを産んでいようがいまいが、オトコだろうがオンナだろうが、仕事してようがしていまいが、この世に生を受けて、「今この時を生きていられるだけで幸せだろうよあんた」って自分につぶやくのだけど、なかなかそう簡単に受け入れられない事もあり。

 

教育に答えなんかあるはずもなく。もしも羅針盤があるとすればそれは、各々の家庭の方針であり、答えは目の前の子どもが教えてくれるだろう。バイリンガルの失敗とか、成功とか、そんなの当の本人には余計なお世話だと思う。それ決めるの、本人でしょうが。他人にとやかく言われる筋合いのものでもないし。親だって子育てのプロじゃない。初めてのことだらけ。そりゃ、日本人で日本の学校でまともに学習している人たちと比べるなら、我が家の子どもたちはこの1年で、日本語学習能力は落ちていること間違えない。しかも、8才の次男に関してはそれが顕著。だけど、その分英語でのリスニング・スピーキング・ライティング・リーディング能力については想像以上に伸びた。とはいえ、学校で英会話を学んでる訳ではない。特に小学校高学年の長男は「英語で教科を学習する」訳だから、学習能力を同じクラスの子どもたちや全州の学力と比較したら基礎的な読解力まで追いついていない分成績は芳しいわけもなく。そう。わたしが勝手に危惧しているのは、日本語も中途半端、英語も中途半端なアイデンティティークライシスを抱えた人間にならないかってこと。こういうことを考え始めると、いつも比較、比較、比較で嫌になる。評価という数字は、簡単に人を納得させる魔力を持っているし、分かりやすいからね。そしてそういう比較をしている時、わたしは不機嫌になり、それを子どもにぶつけてしまう。そして、自己嫌悪になり、子どもに謝るそんなことをこの1月から繰り返している気がする。いい加減本当にその負の連鎖を止めないと子どもたちに申し訳ないと思う。

 

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アメリカに住んで1年になるけど自分のアイデンティティーはしっかりと根付いていてそれを表現する手段を11才男子は持っていた。公立学校での作品。彼らは、はじめての異国での生活に思い切り飛び込み、友達を創って生き生きと毎日遊んでいる。家に帰ってからも、いつも誰かが遊びに来ている。みんな喧嘩もするし、泣くし、笑うし、怒るし、で、気づけばなんか創ってるし、彼らはそれで充分じゃんね。何をそれ以上わたしは彼らに期待しているんだろうと、気持ちが落ち着いているときはそう思う。人間的にも、自然環境的にも、のびのびとした日本にはない環境を小学生のこの時期に彼らが謳歌できることは本当に幸せだと思う。そして更に驚く事には、ドイツに引っ越しても公立の学校に通いたいと言う。「分からない事だらけだから、おもしろいんじゃん」って、2人揃って言う始末。まじで、すごい。この人たち。わからないことだらけだから、心配もあるし、心細いんじゃんって、言葉には出さないけど心で思う40過ぎたオンナ1人。

 

結局、彼らに何かを期待するのではなく、わたしはわたし自身に期待をし、それを満たす生き方をすればよいだけなのは分かっている。それは彼らに対する放任ではなく、寄り添う適度な距離感を保ち続けているということにつながる。ただ、これがなかなか難しい。アドラー心理学で有名な岸見先生が言っていた言葉を思いだす。「そういうときはお母さん自身が楽しめる趣味が仕事を持ちなさい。暇すぎるから介入するんですよ。」とか、「僕が自動車教習所で路上に出た時、教官がブレーキに足をかけ、いつでも車を止められる状態だけど、本当に必要なときにしかブレーキを踏まなかった。僕は路上教習で急ブレーキを踏まれても仕方ない、危うい場面があったけど、教官は最後までブレーキを踏まなかった。これは勇気。だから僕は感謝している。あの時先手を打って、教官にブレーキを踏まれたら、踏む必要なかったのに余計なことをして!と、僕は教官に対して腹を立てていたと思う」そんな意味のことを言われていた。(言われていた言葉が定かではないので、こういう意味のことを言われていたということで記しています。)

いつでもブレーキを踏める位置に足を置くけど、本当に必要な時までは踏まない」このスタンスを保持することがわたしにはしっくり来る。余計なことをしない。これがなかなか実生活では難しいのだと気づく。でも、気づいたときからまた再スタート。毎日がやり直しの連続。

 

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11才男子の中には、世界と夢が入っていて…

 

 

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8才男子の中には、友達が何人も入っていた。

 

はい。ワタシ、今夜寝たらまた明日から人生やり直します。(苦笑)