駐在帯同日記(アメリカ・ドイツ)

7歳と10歳まで日本産まれで日本育ちの息子達と過ごす、駐在帯同者のつれづれ。

美は傷によっても構成される

www.youtube.com

最近のお気に入りの局はコレ。自分を傷つけなくても(雑誌でもてはやされるような美の条件にあわせて無理なダイエットなんかしなくても)あなたはそのままで美しいよ♪美の基準はあなた。あなたが無理に自分を変えなくても、世界が変わればいい。という内容の歌詞らしい。聞いてたら元気の湧いて来る曲。

 

日本で暮らした40数年とアメリカで暮らした11ヶ月を比較したとき一番私がアメリカにいて心地よいと感じる事。それは、私が自分でいられるということだった。日本に暮らしていたときは、他人の目を気にして(空気を読んで)、自分の本当の気持ちを抑え、大勢の意見に従う(協調性がある?)という習慣が身に付いていて、それは当たり前で、そういう行動をとることが社会性を兼ね備えた大人だと思っていた。だから内と外のギャップが居心地悪く、本当に自分のしたい事や気持ちがわからなくなっていた。ギリギリのところで抵抗しながら、ここからはみ出さないでという境界線の内側で、小さな抵抗を積み重ねて大人になった。それは、わたし自身が持つ弱さや保身ともいえる。

 

でも、フラストレーション、弱さ、保身、哀しみ、苦しみという経験は、同時に剛さに還元できる。自分が抱えている傷はただそこに、存在するだけ。それは悪でもマイナスでもない。その傷も含めて自分だということ。それをただ受け入れる事から、はじめればいい。傷はみせびらかすものでもないし、かといって隠すものでもない。ただ在るもの。それに自分が気づいて味わい尽くすことが大切なんじゃないかな。自分自身が自分を評価せず、自分を知り、単なる事実として受け入れられた時、その人の人生の舵は、今までとは違う方向に切りかえられるのではないかと思う。大人になってから、それをするのは生きて来た年数の半分以上かかる気がする。そうなると、舵が切り替わるまでに死んじゃうかも(笑)

 

舵を切り替える為には、住環境を変化させるというのは有効だと思う。外的要因から、嫌でもどうしても自分が変化しなきゃいけない状況に追い込まれる訳だから。それが、異文化だとなおさら。自分が今まで慣れ親しんで来た安全圏が存在しない訳だから、あたふたするよね。知らない人、知らない土地、知らない言葉、知らない習慣。でも、どこに引っ越しても、私がいつも思うのは、住む場所があって食べるものがあるだけで、有り難いと言う事。身近なところでは、わたしが通っていた図書館の無料ESLクラスには、多い時には20名程の生徒たちの半数がウクライナの戦火から逃れて来た人たちになることもある。ウクライナというなじみのなかった国が、その人たちの存在により、急に身近になる。そして、その人たちは、ウクライナという国から離れて、異国であるアメリカでこれからの人生を過ごす。私と同じ世代の人たち。もっと年上の人たち。そしてわたしは再確認する。アメリカという国は移民の国だったんだと。隣の人がどこから来た誰だかわからないからこそ「自分は何者なのか」を主張しないと、人が共存していく事が難しい国だといういこと。だから、会えてUnited states of Americaなんだと。あらかじめ分断されている人たちの集団だからこそ、敢えて「Unite」と明記してまでも、結束を訴えているのではないだろうか。はじめから、ほぼ単一の民族が暮らす日本は、あらかじめUniteしているように見える。だから、わざわざ「自分は何者なのか」ということを主張しなくても、ある程度同じ生活基盤(日本人が日本語で)にのっとって暮らして行けるという現状がある。これは人間の意識を形成する上で、非常に大きな違いを生み出すと感じる。要するに、「あらかじめできている和を乱さないように生きることが要求される日本」「異なる人種や宗教を持つ人間が一つの国で共存していくために、自己を主張して生きて行くことが要求されるアメリカ」だけど、不思議なのは、わたしが過ごした日本でもアメリカでも、人は根底で自分の人生に幸せを求めている限り、悩みの種類は同じようなものなのではないかと思う。「他者からの評価で、自分の価値を決めてしまう。自分に自信がない。」という類いのもの。

 

今年のスーパーボールハーフショーをライブで見ていて、レディーガガに釘付けになった。でも、私が一番感銘を受けたのはその後のインスタのツイート。彼女の体型に対する批判コメントに、ガガの出したツイートに泣けた。(以下引用)

 

I heard my body is a topic of conversation so I wanted to say, I'm proud of my body and you should be proud of yours too. No matter who you are or what you do. I could give you a million reasons why you don't need to cater to anyone or anything to succeed. Be you, and be relentlessly you. That's the stuff of champions. thank you so much everyone for supporting me. I love you guys. Xoxo, gaga

 

自分のからだに、私は自信をもっている。だからみんなも、自分のからだに自信をもってって。そして、執拗なまでに自分でいることの大切さをただ、シンプルに伝えている。彼女だからこそ、この言葉が出て来たのだろう。本当にたくさんの苦難を受け入れた、剛い、慈悲深い、繊細な、愛の深い人なんだと感じた。

 

「自信がない」と思い悩む事が、精神的な「傷」の1つだとしたら、その傷を評価することなくただ、自分の素直な気持ちを知り、感じ、受け入れ、とことん味わいつくせばいいのではないかと思う。隠すことなく、誇張することなく、ただ自分が自分と向き合って受け入れるという作業をたんたんと続けていくだけ。それは孤独な作業だけど、執拗なまでに自分でいる事につながると思う。その時間が濃く深ければ同時にそれは、自分の剛さや勇気に還元されると思う。傷と美って、相反するようだけど、恐らく両方を包括している概念のような気がする。言い換えたら、美は傷によっても構成されているということ。書くという作業は、面白い。「美は傷によっても構成される」なんて、今日のブログを書き始めたときには考えていなかったんだけど、書き進めるにつれて、そんなことを自分が考えていたんだと言う事を知った。うん。タイトルを「執拗なまでに自分でいることの大切さ」としていたんだけど、変えよう;) 

 

貴女が持つ傷はそれを含めて美しい。すなわち、これを読んでくれている貴女が誰だか知らないけれど、今の貴女は特別に何かをしなくても「今のままで」その存在が美しいと心の底から感じられるような、そんな今日を過ごして欲しいと願う。実は、アメリカに来てから急に10キロ近く体重が増えてしまった。そんな自分が自分にエールを送ってるようなブログになったなあ今日は(笑)書く事によって癒されているのは、わたしなんだな〜。